私はまっこBoo

私、”まっこ”という人間の人生模様です

私の2011年3月11日

もう7年になるのが信じられないが、2011年、東日本大震災は衝撃だった。

 

私は小学生の時に初めて大きな地震を経験した。

1978年6月12日の宮城県沖地震だ。マグネチュード7.4だった。震度で言えば、当時は最高レベルの”5”だ。

当時はコンクリートのブロック塀が普通で、その震災により、私が住んでいた借家や近所の塀が崩れ落ちたり、地面に亀裂、火災…

家の中は当然、足の踏み場もないほどグチャグチャになった。

小学生の私には何が起きたのか分からなかった。だが、同じ小学校に通う子がブロック塀の下敷きになって亡くなった事は覚えていたから、6月の大阪府北部地震で、学校のプールのブロック壁に挟まれて亡くなった女の子のニュースには、言葉を失った。

何度も大震災が全国で起きているのに、その教訓が生かされてないなんて!

震災による大きな被害の多い宮城県でさえ、今回の大阪の地震を機に調査した結果、高校、小中学校、幼稚園で26校も不適合とされるブロック塀があったそうだ。

最近ではほとんど見かけなくなったから、特に公共の場所のブロック塀はてっきり、条例か何かで取り壊されたものとばかり私は思っていたのに。

 宮城県は、とにかく地震が多かった。

震度4とか5クラスの地震は割りと起きたから、私は変に慣れてしまっていた。

だけど、2011年3月11日の東日本大震災は、初めて災害に対して恐怖心を覚えた。

 

当時の私はカウンセラーをしていた会社の新店舗立ち上げの為、秋田県に単身で転勤をしていた。子供を仙台に残してだ。

もちろん、転勤の話が来た時は、とても考えられずに断ったのだが、二回目にまたその話がきた時は、半ば脅迫的に感じ、行くか会社を辞めるか?そんな状況に追い込まれた。

ただ、行けば、待遇は一気に上がり、収入も大幅アップが約束されていた。

悩んだ。何日も。家族会議である。

そこでの仕事も好きだったし、辞めたら同じような収入を稼ぐチャンスは二度と巡って来ないだろう・・・。

その頃の私は、お金を貯めて、私と子供2人、良い家に住みたいと云う夢があった。

 

という訳で、2011年の東日本大震災の当日は、秋田に行ってから3年目の事である。

秋田市も相当の揺れだった。地震の慣れていない同僚は、床に泣き崩れていた。

職場が5階だったのもあるのか、とにかく、今までにない強さの地震だと直感した。

 揺れが収まると、私はとにかく冷静に自分の携帯を手に取り、実家や息子と娘の携帯、姉、弟など、一通り電話をかけまくったが、全く繋がらない。

メールも送ったが、何度送っても返事はない。

私は段々と冷静さを失った。だが、勤務中だったので、本社からの指示で、会員様一人一人に電話で安否確認をしたりした。辛い時間だったなぁ・・・。自分の家族の安否確認すら出来てないのに…。

合間に自分の家族への連絡を取り続け、

一番早く繋がったのが実家にいる8才下の弟だった。

母親の安否を聞いたら、「母ちゃん?死んだよ。」と、あいつは答えやがった。(汚い言葉でごめんなさい~ (^^;)

冗談言うくらい大丈夫だよ、と、私を安心させる弟なりの気遣いだったんだろうけど・・・。

その後、次々に子供達とも連絡が取れ、メールも時間差で届くようになった。

 

秋田市ライフラインの復活が早く、電気も水も、割とすぐに使えるようになった。

しかし、電気がついて、同僚がたまたま持っていたテレビラジオに映った光景に、私は絶句した。

 

仙台市若林区津波により200人以上が行方不明!!>

テレビには、その津波の映像も映っていた。

そしてまた家族と連絡が取れなくなった。気がおかしくなりそうだったが、私は何が何でも仙台に帰ろうと必死に情報を集めた。

しかし、私が秋田から仙台に帰る手段は遮断されていたのだ。

交通手段はマヒしていた。道路も線路も何もかも、手はなかった。

ガソリン一台限定20リットル買うために、朝からスタンド渋滞が起き、買えなかった人がまた次の日に並び・・・だ。

タクシー会社には、お金ならいくらでも出しますから!とお願いしたが、断られた。

津波の映像を見てから、私は拒食症になった。

周りも心配して、何とか飲み物だけは飲み続けたが、無理に食べると吐く・・・の繰り返しだった。体がガリガリになった。

家族とも幸いまた連絡が取れるようになったが、避難所での厳しい現実の話を聞くと、秋田で自分だけ何とか普通の生活が出来ているのが辛く、また一向に帰れない日々、でも職場には行かなくてはならない、毎日が苦しかった。

そんな時、一番下の17才離れた弟が、

「もっと気楽に生きろよ!」とメールをよこしたのだ。

へ?もろ被災した弟に、私、励まされてる?

そう思ったら、何だか笑えて、気楽になった。

 

秋田の地震による一次被害はそんなになかったが、流通のマヒで物資が中々入って来ないせいか、店が開いても、奪い合うようにみんな買い漁って行った。人間がとても怖いと思ったわ。

カセットコンロ、おむつ、インスタント食品、缶切り、ティッシュ…何もかも品薄状態だった。

仙台では、一番最後まで使えなかったのがガスだ。

とにかくお風呂に入りたい!!と、家族はよく言っていた。

 

少しづつ買い集めた物資を、ようやく再開したクロネコヤマトの宅急便で、私は送った。私が秋田に行った後、息子は結婚して子供が生まれた。何が足りていないか聞いたら、嫁さんが、おむつが足りないと言っていたので、インスタント離乳食や売れ残っていた特大サイズのおむつなんかも送った。まだ1才前の孫にはあまりにサイズが合わなくて、役に立たなかったらしいが・・・。

会社の副社長も、マイカーを飛ばして本社から仙台店まで物資を届けるついでに、私の息子の所にも直接、届けてくれた。感謝しかない。

 

私がようやく仙台に帰れたのは、地震から一か月半くらい経ってからだ。

家族の状況が全て把握出来ていたから、精神的には落ち着いてきた頃だ。

どうやって帰ったかと言うと、「秋田に戻るガソリンの保証はないけど、仙台に連れて行ってあげるよ!」という奇特な方がいて、やっと、やっと、仙台に帰れたのだ。

まるで神が降臨した様だった。

その奇特な方が、今の主人である。

 

娘は避難所が嫌で、友達の家にお世話になっていた。そして、付き合っていた彼との赤ちゃんがお腹にいた。私に怒られるからと、隠していたのだ。しかも、妊娠がバレたらばあちゃんにも怒られるからと、友達の家に身を寄せていたのだ。

その話は後で、取り合えず、秋田に戻ればお風呂も入れるし、ゆっくり休めるし安心だからと、娘を連れて帰る事にした。実家にもさっと顔を出し、安心な事を確認した。

しかし、息子と嫁さんだけ連絡が取れず、もうタイムリミット!

いま仙台にいても何も解決にならないと判断した私は、秋田にUターンする事にした。

途中、ようやく息子から連絡がきた。

遅っ!遅いっちゅうの。

孫の顔を見て行けだの何だのかんだの言っていたが、連絡取れなかった貴方が悪い!

 

あの時、娘だけ連れて秋田に戻った事がよほど腹立たしかったのか、その後しばらく、息子と顔を合わす事はなかった。

小さい奴め。

 

書き始めたらさらに続けたくなったので、今日はこれにて(  ̄ー ̄)ノ