私はまっこBoo

私、”まっこ”という人間の人生模様です

生ける時までの生き方を考える

今の時代、100才ですが元気で~す(^^)/ な~んて方が沢山いますよね。

私が子供の頃に思っていたおじいちゃん、おばあちゃんとは、漠然とだが、まあ、60代くらいをそう思っていた様に感じるが、失礼しました・・・である(;^ω^)

私の母も祖母も叔母も(私もだが)結婚、出産が早かったから、特に年頃になった時、同級生の親がそこそこ年を取っているの知った時、ビックリしたものだ。

 

そんな私も、後ろを見る暇もないまま人生を走り続け、気づけば孫までいる。

50代ばあちゃんだ。

無我夢中に、ほとんど仕事中心に生きて来たから、ここまで、けして中身が濃かった?充実していた?とは言えないが、私に出来る事は全力を出してやってきたつもりだ。

 

出来る事は出来る。出来ない事は出来ない。 田中角栄の名言より~

恵まれていたり、表面でしか人を判断出来ない人間は、陰で私の事を悪く言っていただろう。最悪人になると、子供たちにまで、私のダメ母アピールをする。

それが子供の反抗期に拍車を駆ける事に加担している事を、最悪人たちは気づかなかったのか。

だが私は、強かった。気にしている暇などなかったからだ。

若くして結婚し、キャリアも使える資格もない私が、離婚して、二人の子供を食べさせていかねばならないのだ。

子供が友達に引けを取らないように、最低限の物も与えてあげたかった。

だから、時には昼も夜も働いた。私は人様に迷惑をかけたり、闇の仕事をしてきた訳ではなく、ただ、仕事でいつも家に居なかっただけである。それが私の後悔だ。

頼れる人もいなかったから、出来る事は出来る。出来ない事は出来ない。まさに、そんな感じでひたすら生きてきて、今日に至るわけだ。

 

輝かしい思い出はないが、辛い出来事は沢山あった。

そして、その箇所箇所で、助けてくれた人は絶対に忘れない。

こんな風に、ハーブティーを飲みながら(見えないっちゅうの!)ブログを書ける時間も、神様が与えてくれたご褒美だと思っている。

 

ひとの人生の価値は、他人が決める物ではなく、死ぬ時に、自分が後悔するかしないか・・・だと思っている。

同じ100才でも、毎日を楽しんで長生きしているのか、家族も楽しい事もなく、過去を後悔する毎日なのか。

私が100才となると、倍はまだ生きられる。そう考えたら、健康管理は欠かせないし、無理なく出来る趣味、どうせなら、収入になる事も抑えておきたい。

 

みんなは、もし自分の死ぬ日を知る事が出来たら、どんな行動に出るのだろうか。

縁あって与えられた命だが、いつかは死ぬのだ。

それが事故か病気か老衰か、100才超えか、明日なのか。

せっかく、いろんな事にチャレンジ出来る人間に生まれたのだ。

今、出来る事は、やらなければ。

 

年を重ねるのを悲観する人がいるが、それは、自分の生き方を否定する様なものだ。

時間はあるのに言い訳ばかりが先にくる、人のせいにする。

やらなかったのは自分のせいであり、楽しい事は、自分が見つけるものなんだ。

死ぬのが怖い?それは生きる事への未練がまだまだあるから怖いのだと思う。

死んだらどうなるか分からないから怖いのだ。

まさか本気で、死んだら地獄の閻魔大王に舌を抜かれると思ってはいないだろう。

もしそうなら私も怖い。

だが私はまだ死にたくない。やりたい事、やるべき事が沢山あるからだ。

子供たち、孫たちが、これからどうなるか分からない日本の社会の中で、無事に生きて行けるよう、出来る範囲でしてあげて、その心残りがなくなった時、笑って死にたい。

ただの理想である。

そうだ、ある心理学者が言っていた。

「人は生きる事に疲れたら、自分で死ぬ日を選んで良いと思う・・・」と。

例え疲れても、次の日にまだ立ち上がれるなら、生きるべきである。

自分の死ぬ日を選べなかった人たちのために・・・